2025/12/23 00:00
祈りと聞くと、
多くの人は「願うこと」だと思っている。
叶えてほしい。
守ってほしい。
うまくいくようにしてほしい。
それは自然な感覚だし、
否定する必要もない。
ただ──
それは 祈りの一番外側 にすぎない。
願いが強い祈りほど、
そこには欠けた感覚がある。
足りない。
不安だ。
自分だけでは心もとない。
だから、
外に向かって手を伸ばす。
でも、視える側に立つと、
祈りの本質はまったく違うところにある。
祈りは、
何かを動かす行為じゃない。
自分の状態を整える行為 だ。
本来の祈りは、とても静かだ。
声を張り上げない。
強く願わない。
結果を要求しない。
ただ、
呼吸が深くなり、
感覚が戻り、
余計なものが剥がれていく。
それだけだ。
願いが前に出た祈りは、
整っていない状態で放たれる。
整っていない祈りは、
世界を動かすことはない。
動くのは、
祈っている本人の心だけ だ。
私は、
祈願という形をとらない。
「こうなりますように」
「これを叶えてください」
そういう言葉を、
こちらから差し出すことはない。
なぜなら、
整っていない状態で願っても、
結果は歪むからだ。
整っている人の祈りは、
ほとんど祈りに見えない。
静かに立っているだけ。
ただ手を合わせるだけ。
何も求めていない。
それでも、
不思議と物事は進んでいく。
祈りが叶ったのではない。
整ったから、流れが戻った
それだけだ。
私は、
願いを叶える人ではない。
代わりに、
整える位置に立つ。
その人が、
自分の感覚を取り戻す場所を
そっと指し示す。
それ以上のことはしない。
祈りは、
誰かに届かせるものじゃない。
自分の中に戻るための行為だ。
その意味で言えば、
祈りはとても厳しい。
誤魔化しがきかないから。
この文章を読んで、
何かを願いたくなったなら、
まだ外を向いている。
でも、
何も願わずに
少し呼吸が深くなったなら。
それが、
祈りの入り口だ。
私は、
祈りを教えるつもりはない。
ただ、
整った場所に立っているだけ だ。
── しめ縄
縁導師:コウキ
