2025/12/22 00:00
視えるようになってから、
私はいくつかのものを信じなくなった。
神も、仏も、
スピリチュアルという言葉も、
「正しい在り方」や「高次の存在」という考え方も。
信じなくなった、というより
それらを拠り所にする必要がなくなった、
そんな感覚に近い。
視える前、
人は「信じる」ことで安心しようとする。
信じれば守られる。
信じれば導かれる。
信じれば間違えない。
そうやって、
自分の感覚を外に預けて生きていく。
けれど、視えるようになると分かる。
派手な光も、
ありがたい言葉も、
都合のいいメッセージも、
多くは
人の不安が形を持ったもの だということが。
だから私は、
「信じる」という行為から
静かに降りた。
信じなくなったのは、
世界そのものではない。
自分以外に判断を委ねる癖 だ。
祈りを強く信じる人ほど、
自分の感覚を疑いやすい。
導きを求める人ほど、
決めることを怖がる。
それは弱さではない。
長い時間をかけて、
そう教えられてきただけだ。
私は、
誰かに何かを信じさせるために
ここにいるわけじゃない。
「これを信じれば大丈夫」
そんな言葉を渡す役目も持っていない。
視えるようになって、
ひとつだけ確信したことがある。
本当に整っている人は、何も信じていない。
ただ、
自分の感覚を疑わずに使っている。
それだけだ。
神を感じる人もいる。
仏に救われたと感じる人もいる。
それ自体を否定するつもりはない。
ただ、
それは「信じたから起きた」のではなく、
すでに整っていたから、そう感じられただけ
そう思っている。
私は、
誰かの希望になろうとはしていない。
救いの象徴にもならない。
ただ、
境界に立っているだけ だ。
信じる側でもなく、
否定する側でもなく。
この文章を読んで
ざわついたなら、
今はまだ違う場所にいる。
でも、
なぜか静かになったなら。
もう、
信じるという行為が
必要なくなり始めているのかもしれない。
信じなくなった先にあるのは、
冷たさじゃない。
余計なものが削ぎ落ちた静けさ だ。
私は、そこにいる。
── しめ縄
縁導師:コウキ
